小町湯 ~小樽の昭和初期の銭湯文化を今に伝える

2021(令和3)年10月24日、道内では現役最古の銭湯となっていた小町湯(その後、小町湯温泉)が、百数十年に及ぶ営業を終えた。1932(昭和7)年頃に建てられた建物は、昭和初期の小樽の銭湯の特徴を随所に留め、味わいだけでなく小樽の生活史をリアルに伝える貴重な存在となっている。
この銭湯の創業時期は定かでないが、1900(明治33)年に河本徳松・コン夫妻が上坂家から購入して三〼小町湯のあゆみは始まる。当時夫妻はその前に買った蕎麦屋を繁盛させており、小町湯の方は妻のコンが使用人を使って営業。昭和40年代にコンの孫である徳三郎の妻道子さん(2019年逝去)が引き継いだ。ちなみに1909(明治42)年に建て替えられた蕎麦屋の建物は、その後「北海道開拓の村」に復元再現され現在に至る。
小町湯の内玄関を入ると番台があり、履物を下駄箱に入れるのだが、番台の側面にも同様の板鍵付き下駄箱がはめ込まれている。戦後の物不足の時代は銭湯で盗難が多発。そこで鍵付きの下駄箱が広まるが、小樽では小町湯をはじめ何軒かの銭湯で鍵付きの下駄箱がある番台を見てきた。銭湯に多くの客が押し寄せた時代の名残といえよう。番台の袖にはホーロー板が張られ、そこに小樽のゴム靴会社「三馬」の広告と「履物は間違わぬよう」という注意書きが焼き付けられている。
脱衣場の天井には白いレリーフが広がる。模様を打ち出した金属板にペンキを塗ったもので、小樽で昭和初期に建てられた銭湯建築に散見された。また天井と白壁の境界部分にあたる廻り縁は青緑に塗られ、そのコントラストが脱衣場空間をモダンに彩っている。
小町湯の浴室には当初、広告入りのペンキ絵があった。浴槽は中央に据えられた四方風呂で、このタイプは大阪型と呼ばれ、小樽の銭湯ではこれが主流だった。浴槽の最深部は1mをこえる深さ。私が昭和30年代に入っていた銭湯もそうだったが、かつて道内の銭湯はかなり深く、子どもが溺れることもあったという。そこで小町湯でも浴槽に子ども用の浅い部分を設けているが、こうした造りは小樽に限らず道内の銭湯に共通したものといえる。
小町湯は、昭和50年代に温泉をボーリングして「小町湯温泉」となった。昭和58年6月29日の北海道新聞に、小町湯が温泉の利用許可願いを出していて7月上旬までに許可が下りる見込み、という記事が載っている。2本の温泉を掘り、内1本の湯は一時期フェリーターミナルの温泉にも使われ好評を博した。
小町湯がある信香町は、小樽ではかなり早い時期に人の集住が始まった地区だ。たとえば銭湯についても、1858(安政5)年にすでにノフカに銭湯があったことがわかる文書(市立小樽図書館の河野常吉初代館長が古文書を書き写したと推測される「万延元年諸用留」)も残されている。小町湯との関係は不明だが、小樽の銭湯の始まりが信香地区だった可能性は高い。
そうした歴史性も踏まえると、昭和初期の銭湯のたたずまいを今に伝える小町湯の存在には、特別なものがある。北海道の銭湯について本をまとめた23年ほど前、私は小樽を「銭湯王国」と呼んでいた。当時小樽にはまだ33軒の銭湯があって、人口当たりの軒数は道内の市部で最も多く、建物やサービス、湯の種類等さまざまな面で秀でたものがあった。そんな小樽の地域型銭湯も今は5軒に急減している。
小樽の魅力を市民の暮らしを通して教えてくれる銭湯。小樽ならではのまち文化資源を考える時、市民の暮らしにより密着した場所が、その後も見えるかたちで活かされて行くことの意味は大きい。小町湯の脱衣場に入ると、小樽人の暮らしと銭湯文化の熱量が今も伝わってくる。
まち文化研究所主宰 塚田敏信記

見学会の問合せ先は
 
NPO法人小樽民家再生プロジェクト代表 石井伸和
080-3156-8484

 

 

掲載されている建物は、大変長い間、この小樽で頑張ってきた建物です。
風雪に耐えてきました。

素晴らしい建物ですが、年齢を重ねた分、老化もみられ、
​そのままでは断熱性気密性はありません。また、現在の建築基準法には適合していません。

これらをご承知おきの上、ご利用ください。